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偶然的必然性・・・2
今回は前回の続きを、自分の過去を例に書いておこうという気になったのですが・・・いやぁ~、書き始めると引き寄せが作用して、今となってはどうでもいい過去の思い出が次から次へと引き寄せられてきて(^_^;) 読み返したら、ウンザリしたので、全部サクッと削除しちゃいました(笑)

ホント、最初に引き寄せの作用点を決めておかないと惰性の創造がいとも軽やかに起きますね(^_^;)

要するに、いろいろ有ったんですが、若い頃、熱望していたものに30数年ぶりに再会した(引き寄せられた)ということです。凄い、端折ってますがm(__)m

で、このブログの読者の皆さんがどんな嗜好性&思考性をお持ちかはわかりませんし、様々な方がいらっしゃると思いますが、私のブログですから、我が儘にいかせてもらいます(笑)

さてさて、今の私は、非常に「頭のない方法」に関心があるわけです。試してみた方が、「見た」かどうか、関心があるかどうかは別にして、「見た」を前提に話しを進めます。

引き寄せの法則を調べていると、いい気分(FeelGood)になることが重要とあります。では、そのFeelGoodが、盗みや殺しの人がいたら・・・と頭を過ぎるわけですが、自分の感情に聴けば、感情が教えてくれると書いてあります。

通常、感情的!と使ったりするように、感情にはネガティブもあればポジティブもあります。ですから、よく読むと、この感情は引き寄せたいものを想像した時に、自分にいい気分としてふっと湧く感情(というより感覚に近い)を指しており、文字どおり、普段、我々が使っている感情とはオーバーラップしている部分もありますが、身体意識や知性と思えるような領域を含む感覚らしいことがわかります。

さらに、何故その感情が信頼に値するのかといえば、「内なる自分」とか「本当の自分」、ハイアーセルフとか魂、etc.といったより高次の自分が感情を媒介にして自分が望んでいるモノの正当性を教えてくれるからだと書いてあるわけです。

ですから、盗みや殺し、復讐などは、通常使われる感情という言葉では愉悦レベルの低次元であり得ても、本当の自分とかハイアーセルフではあり得ないという感覚かつ論理になるわけです。

さらに、自分の引き寄せたいものと本当の自分が望むものの波動が一致した場合、その願望の力は一致していないものよりも、格段に強力なわけですから、より引き寄せ効果があるというわけです。

この辺のことは、前々回にご紹介した動画にコンパクトに纏められていたと思います。

では、「本当の自分」とは何なのしょう?どこにいるのでしょう?

頭の両脇に天使と悪魔を書いてある絵を見たことがあると思いますが、あれはエゴの声と良心の声で、その葛藤を描いてあります。

だとすると、「本当の自分」と良心は同じなのでしょうか?違うのでしょうか?

魂とか霊魂とか言葉では誰もが知っていますが、実感している人はどれほどいるのでしょうか。魂や霊魂と「本当の自分」、さらには良心と同じなのでしょうか?良心とは魂とか「本当の自分」の機能、すなわち単なる働きなのでしょうか?

インド哲学などでは、真我(アートマン)が本当の自分であると言っています。さらに神智学では、言葉の定義にもよりますが、魂ですら、真我の鞘(鏡、働きのようなもの)と説いたりしています。

では最高最大級の権威の人たちと思われる、仏陀やキリストはどうでしょうか?

こうして考えてみても、考えている世界を堂々巡りしているばかりで、せいぜい自分の納得した説を信じて生きるしかない人が大半なわけです。

そこで、行の薦めが説かれたりするわけです。百聞は一見にしかず・・・

ところがこれまた、一見がなかなか出来ず・・・

つまり、素晴らしい教えを説いている人たちですら、長い長い、時には過酷な行を経て、何らかの悟りを得たとされている以上、我々凡人が、そうおいそれと悟りを開くとか、そこまで行かなくても、見性するのは至難と思われてきたわけです。

ですから、「見た」人たちは、なんとかそれを言葉で伝えようとしたり、説こうとしたり、なんらかの行を創って、自得させようとしたり・・・

要するに、宗教的、哲学的、神秘主義的、今では科学的?アプローチも含めて、百花繚乱となっています。

ですが、「見た」人以外は、すべてその周辺を彷徨うだけで、肝心の「それ」には辿り着けないわけです。たまに、垣間見ることはあっても、再現性に乏しく、その体験の感覚すら忘却の彼方へと・・・

で、引き寄せに出会ってから、自分はこの世界の才能はないと、ほとんど諦めてもいたのに、やっぱり「本当の自分」をどうしても知ってみたいと再度思い始めたわけです。より引き寄せの効果を高めたいという衝動?欲望?によって(笑)

ですから「頭のない方法」への出会い方は偶然ですが、若い頃から求め続けていたが故に出会いは必然なんですね。

前回、もしも、このブログを読んでいなかったら・・・(笑)と書きましたが、まさにこれは自分の事なんです。

自分がもしも、ブログを書いていなかったら、書いたものを読み返して、もっとシンプルなものを皆さんに・・・と考えて探さなかったら、その時、眠くなっていたので、半ば無意識にクリックした動画が1(A)でなかったら・・・

特に、もしもクリックしたのが、サイトだったら、通り過ぎていたでしょう。

知識からでは、やはり、今の私では受け付けなかったと思います。過去の燦然と輝く聖者や大聖たちが、説いているものがそんな簡単(自分を指さすだけ)にわかる、同じモノであるわけがない!!!!!!!!と。

眠い目をこすりながら、皆さんに役に立つかもしれないとボンヤリ、批判的思考がまったくない状態で、おもむろに言われたとおり、試してみたら、眠気がぶっ飛んだ・・・というわけです(笑)

さて、ではこれが過去の偉大な聖賢たちが語っているものと同じや否やはどう判断するの?と思われる方もいるでしょう。

そこで、「見た」人にとっては当然の感覚(それも凄いことに物理的な感覚)ですが、20世紀最高の聖者と言われるラマナ・マハリシ(『私は誰か?』という問いかけで悟ってしまった人)のこの詩を読んでみて下さい。「見た」人が読めば、自分の見たモノが真我を指していることは冷暖自知でしょう。

これは物理的な現象ですから、信仰心とか宗教などとはなんの関係もありません。「見た」人なら誰でもわかります。もちろん、段階性がありますから、到達している境地は天と地ほど違うでしょうが、通常、古来から入門すら不可能に近い難事と思われているのですから、いとも簡単に入門できてしまうことが私のように知識として、行として求めてきた者にとっては驚天動地なだけです(笑)

さてさて、「私を見た」私?はどうなるんでしょうねぇo(^-^)oワクワク

今後、一般論として肉体(様々な層を含む。真我自体は永遠不滅の完成形?です)がどう変化?成長?するのか・・・は知識としては本当かどうかは定かではありませんが知っています。昔取った杵柄で(笑)

そして、例えばこんな事を考えてみるとさらに~♪

「何を本当にやりたいのか」
「それをどこでやるのか」
「そして、誰とやるのか」
・・・etc.

もっとも、o(^-^)oワクワクしているのは、今、こうして書いている私であって、これを目撃している「見た」=真我は静寂そのものですが(笑)
【2013/04/27 22:40】 | 日々つれづれ | トラックバック(0) | コメント(0)
偶然的必然性・・・1
前回のご紹介した動画やサイトは皆さんに多少なりともお役に立ちましたか?

私にはとっても役立ちました~♪

この私にとっては役立った!・・・というのは、動画やサイトが直接役だったのはもちろんですが、二重の意味で、別の意味で役立ったということです。

前回ご紹介した「頭がない方法」に少し触れてみたいとは思っているのですが、私自身、まだ試して数日で、今も体験を重ねている段階ですから、感想も含めての思うところはいずれということで、今回は、思いっきり頭のある方法?の話です(笑)

タイトルの「偶然的必然性」は、以前にも使ったかもしれません。今はまだ、過去のブログを読み返していないので、記憶が定かではありません。今は今が楽しいので、過去を振り返る気が起きないんですね。いずれ、自分史というか、自分の認識や身心の変遷史?として読むのを楽しみにしています(笑)

さて、「偶然的必然性」という言葉を読んだとき、皆さんはどんな感慨を覚えますか?
サラッと文字として読み飛ばされましたか?
何で反対の言葉が並んでいるんだろう?と疑問が過ぎりましたか?
あるいは、感慨とはオーバーな!!!と感じられたでしょうか?ちなみに感慨とは辞書には、心に深く感じること。しみじみと思うこと。とありますから。
あるいは、そうなんだよなぁ~~~!!!と遠い眼差しになられた方もいるかもしれませんね。

別に、どんな認識を持たれてもOKですね。多様性があるわけですから。この辺の認識の構造に関しては前々回のブログ(鏡3)で、少し説いてあったなと気づかれた方もいるかもしれません。

遠い眼差し!になんでなるんだ???と不思議に思う方もいるかもしれませんが、認識の構造は、多少、鏡3で書きましたので、今回は、そんな不思議に思う方も「偶然的必然性」という言葉、概念は実はご自分の人生にも相当数存在しているという点から具体的に見てみましょう。

例えば、皆さんにもこんな経験は幾つかあると思います。

もしも、あの人に出会っていなかったら・・・

もしも、あの教えに出会っていなかったら・・・

もしも、あの時あの場所に行っていなかったら・・・

もしも、このブログを読んでいなかったら・・・(笑)・・・etc.

・・・以降がご自分にとって良い(好い)事か悪い(気に入らない)事かは別として、複数思い当たったでしょう。特に年配の人ほど(笑)

逆から考えてみましょう。

・・・以降は、「もしも、あの○○、××」の現象以降、変化したからこそ、振り返ってみて、まさに、「もしも」を、Ifを付けている、つまり、その偶然が起きなかったらと仮定して考えて(眺めて、思い出して)いるわけです。

ということは、この時点では、それが後に、場合によっては人生を左右するほどの重大な現象とはまったく考えてはいないわけですね。

ところが、ある時間、期間が過ぎてみると、それが自分にとって如何に重大事だったかがわかり、まさに、文字どおりの「もしも・・・」という感嘆になるわけです。

そこで、もう少し、抽象度を上げて同じことを、考えてみると、こんな風になります。あの偶然があったからこそ、今の自分は必然的にこうなったんだなぁ!!!と。

逆に言えば、今の自分(必然的変化)は、あれ(偶然的出来事)があったればこそ!なわけだ・・・。

そしてこれを一言で纏めると・・・「偶然的必然性」となり、おそらく、皆さん、な~んだ!!!当たり前のことを!!!とご納得いただけたのでは(笑)

で、ここまでは、極論すると動物にも当てはまることだと思い浮かんだ方はいらっしゃいますか?

もちろん、動物がこんな感慨を持つわけはありません。何らかの感覚は感じるかもしれませんが。

例えば、捨て猫になるか、飼い猫になるか、保健所にいても殺処分になる犬と僅かながらも気に入られて助かる犬・・・まさに、運命の分かれ道ですね。

動物は、本能的実在ですから、分かれた道を一本道として生きていくしかありません。ですが、人間は認識的実在です。分かれ道の意味を、もしも、別の道を行って(生きて)いたとしたら・・・と、この現象を捉え返す事ができるわけです。

つまり、運が良かった、悪かったというのは、動物の認識?に少し毛の生えたものと言えるわけです。

すなわち、この「偶然的必然性」に後になって、気分の好悪を付けて、お終いにしている事を繰り返しているだけですから。

さて、皆さんが思い当たってそうだ!そうだ!という段階に止まっている限りは、この段階ですから、「偶然的必然性」を有効活用し難いのではなからろうかと思うわけです。

皆さんが幾つか思い当たるとすれば、皆さんなりにこんな仮説を立てて、検証できませんか?

そういえば、以前もこんな事(こんな感じ)があったなぁ。これって、後で凄い大事だと思うことがあるんだよなぁ。

つまり、こんな事(それに対する感覚や感情)の場合(仮説)、過去の事例を調べてみると(検証)、多くの場合、当てはまるなぁ・・・

さて、ここまでは、自分の過去を照らし合わせてみる・・・つまり、調べてみる、考えてみるという点では積極的ですが、それを受け入れるという点で受動的です。

何を言いたいのかというと、この偶然が、自分の人生に何らかの変化をもたらすことが必然と納得できたのなら、では、次に、もしも、この偶然!!!は、と直観できた事象が起きた時、変化は必然なるが故に、意図的に、その過程に関与できるのではなかろうか!!!ということです。

つまり、舟(偶然)に乗った以上、川を下っていく(必然)のは当たり前だが、どうせなら、さらに漕いで加速する、あるいは別の岸、場所へ行く(行きたい方向へコントロールする)ことが可能ではなかろうかと捉え返してみるということです。

そうです!!!結局は、下流へ行くんだから、どうせなら、その途中途中でいろいろな場所や出会いを楽しむことを意図してみたら、その旅自体は、必然だけれど、意図する事によって、その旅という大枠は変わらずとも、その中でさらなる引き寄せ(良き出会いや素敵な場所に行ける)ができるんじゃなかろうか?ということです。

長くなっちゃいましたね(^_^;)

続きは次回ですね。
【2013/04/25 17:52】 | 日々つれづれ | トラックバック(0) | コメント(0)
鏡・・・4
今日も寒いですね!!!

でも明日辺りからは暖かくなって夏のようになるらしいですね(^_^;) 私の心?も大騒ぎしておりますが、自分自身は静寂そのものです(*^_^*)

ところで、前回は私の思考の志向性&嗜好性により、またまた小難しい展開になってしまいました。

もっと、引き寄せの法則にさほど興味のない方、初見(私のブログに今回初めて来る方はいないとは思いますが)の方向けに役立つ書き方はできないものだろうかと(^_^;)

そこで、もっと単純で効果的なものを自分の筆ではなく人様のものですが、ご紹介しようかと考えていましたら、早速、引き寄せの効果で幾つか見つかりましたので、貼っておきます。

もちろん、私の嗜好性&志向性が多分に反映されておりますから、波動の合わない方もいらっしゃるでしょうし、引き寄せの法則に関心を持たれている方には周知のものかと思いますが、あしからずm(__)m

まずは、『68秒間のピュアな思いで理想の現実を引き寄せる』です。

この中の秒数とか数字の意味は私はわかりませんが、試してみると、とても効果的です。さらに、イメージの仕方というか、秘訣が説かれています。

惜しむらくは、あまりに簡単すぎて、つい忘れてしまうところでしょうか。自戒も込めて貼っておきます(笑)

次は『引き寄せの法則 実践編』です。これはマインドマップを使ってわかりやすく説明しています。あまり興味を持っていない方には概観的に、既に十分知っている方には確認としていいでしょう。

あとは『引き寄せの法則を理解する3つのステップ』ですね。これはあっという間に概観できますが、既に、十分ご存じの方向けです。確認の意味合いが強いですから。

とりあえず、YouTubeの動画を3つほど貼っておきました。他にもたくさんの動画がありますから、自分に合ったものを引き寄せて下さい。これこそが一番大事でしょう(笑)



さて、最後に今回のシリーズのタイトル、『鏡』で私が引き寄せられたものです。寒暖の差に絡めての意味深?意味不明?な出だしに気づいた方もいらっしゃるでしょう。

それが、以下のページの下段にある1(A)~4(B)までの動画です。これは、何となく皆さんにご紹介できるものがあったらなぁ~と漠然と思っていたときに、まさに偶然出会いました。ですので、知った(視た)のは今日(既に昨日ですが)です。

私にとっては青天の霹靂、驚天動地でありました。伝統的な教え(大多数の人にとっては知識か信仰でしかないもの)を実に簡単な実験で、実はそれが真実であると気づかせる驚くべき手法です。

視点を変える、感覚の反転など、多少の知識や体験はありましたが、こんな簡単な実験で、私にとっては遙か彼方の到達する世界(境地)と思い込んでいた世界をいとも簡単に実感させるとは・・・唸ってしまいました!!!

一体全体、ああでもない、こうでもない・・・と自分が大騒ぎしていることってなんだったんだろうと(^_^;)

モーシェもそうですが、しかし、世の中には凄い人がいるものです。あまりに当たり前過ぎて、誰もが気づかないことに・・・気づく!!!・・・

それはさておき、私はこれが引き寄せの法則の視点にとっても実に意味深いものだと実感していますのでご紹介しようと思いました。

ですが、何度も言うように人それぞれです。私のことは信じず、ご自分で判断してください。

私(の神経システム)がこのように受け取ったのであって、皆さんがどのように受け取るかは皆さん(の神経システム)が決めることですから~♪
【2013/04/23 01:47】 | 日々つれづれ | トラックバック(0) | コメント(0)
鏡・・・3
今日は寒いですね~(^_^;)

夏から一転、冬へ・・・ダイナミックな変動、そして変化が早いということは、自分も自然の一部だから、反対から反対へ移行するのも速いぞ!と、勝手に思い込んでニンマリしてみたり(笑)

それはさておき、皆さんも幾つか実感できるモノ(物、人、現象など)が思い浮かんだことでしょう。

実感は人それぞれ違いますから、やはり、少し一般的な例えでいきましょう。

引き寄せの法則=波動の法則でもありますから、まず重要なのは、如何に自分がその波動になるか、取り込むかですね。

ですから、自分の体験、経験が直接的で一番効果的です。次は、人の振り見て我が振り直せ!の間接的、媒介的な鏡を通じての擬似的な実感ですね。

そして、本や映像などの情報がそれに続くでしょう。もちろん、これにも段階がありますね。

思考レベル程度では知識低度ですから、自分の波動と引き寄せたいモノとの波動がかなりズレている場合、ほとんど引き寄せられないことになります。

感動している場合、感情が高まっているわけですから、波動的には思考レベルよりは近づいているわけですが、注意深く観察してみると、この場合、自分の波動が引き寄せたいモノに近づいている、成っている場合と、自分も引き寄せられるんだ!!!可能なんだ!!!という教え(本の知識)に感動して高揚している感情とを分けて考える必要があるでしょう。

後者の場合、本(教えや知識)に感動しているわけですから、自分の引き寄せたいモノの波動とは直接関係ありません。本は本!!!という生き方にならざるを得ないのは、この辺の識別がついていないので、本を読んでいれば人生が変わると期待しつつ生涯を終える可能性が高いでしょう。

なぜなら、無意識に引き寄せていることは、本を読んで感動できる自分! すなわち、決して本を生きることはできない自分!を引き寄せているということに論理的にはなりますから。

ですから、自分を直接扱うのが一番効果的ということになりますが、これが人によってはなかなか難しいものがあるわけです。

よく言う、他人のことは分かるけど、自分は・・・というやつですね。自分を他人化して眺める、自己対話(頭の中でのおしゃべりではありません)できる人(単なる技能ともいえますが)はそれほど困難でないかもしれませんが苦手な人には至難です。

そこで、まずは他人を鑑として見てみると分かりやすいわけです。その時、まずは自分の周囲の人で、なるべく極端な特徴を持っている人を何人か選びます。

例えば、もの凄く楽天的な人と悲観的な人。正反対ですから、違いを見つけやすいですね。観察してみるときに、幾つかの視点を持っておくとさらに特徴を見つけやすいでしょう。

例えば、言葉(使い)のクセ。話の方向性や内容、つまり波動。その時の表情、姿勢、呼吸。さらに、その人から発せられる雰囲気・・・など。さらに、それによって生じる(引き寄せる、引き寄せられる)人、現象など。

もちろん、鑑として使うためであり、批判したり、こうあるべきだ!と信念を持つためではありません。どう生きるかは、人それぞれの自由ですから。人の自由を許容できないということは、自分自身の波動の視点から眺めてみれば、自分が自由自在に変わることを自らに許容していない、できない、ということになります。

ですから、楽観的な人と悲観的な人では、あまりに違うので、非常に学びやすいでしょう。これを自分に適用してみればいいわけです。例えば、自分が引き寄せの法則を知る前は、悲観的だったり、懐疑的な傾向だったのが、知った後、楽観的な人間に変化しだしたとしたら、自分の波動は楽観的な波動に変化しだしたわけですから、自分の人生に楽観(楽しく観える)的な現象が増えてきているでしょう。

本を読んでも、知っても変化が乏しい場合、上記したように本は本という分離した捉え方になっているわけですから、自分なりに波動を変える方法を見つけて変えればいいわけです。

もしも、自分の体験や経験、さらには他人の経験からも実感を伴って学ぶことができる人は、表象的な視点から学べばさらに汎用性が高まります。表象的とは、例えば、チューリップ(自分の体験)とか、バラ(他人の体験)という個別の花から、花一般(楽観的、悲観的、懐疑的、情熱的、etc.などの性格的特徴)から観る視点です。

諺や格言なども表象的ですね。

もしも、表象的レベルが感情・感覚的に実感できるレベルの人であれば、上記した内容を次ぎの一言で済ますことができ、さらにエリアも格段に広く適用できます。

泣きっ面に蜂、踏んだり蹴ったり、弱り目に祟り目、etc.⇔悲観主義

棚から牡丹餅、鴨が葱を背負ってくる、笑う門には福来たる、etc.⇔楽観主義

そしてさらに抽象度が上がり、法則レベルを感情、感性で実感できる人には、類は友を呼ぶ!の一言でいいわけですね。

もちろん、類は友を呼ぶ!は誰もが知識では知っていますが、識って(感情や感性を伴った論理レベル)いる人は少ないでしょう。

同じ「しる」でも知ると識るでは頭の中(感情と感性も含めて、つまり認識)の働きが天と地ほど違います。

「知る」は、聞いた段階で、言葉の記憶のデーターベースに照合して、これは知っている!で終わりです。つまり、頭の中(要は認識ですが)の働きは、言葉(音)→記憶照合→知っている、知っていないの回路でほぼ終わりです。

「識る」は、具体→表象→抽象と上記してきた過程を逆向きに追体験(その波動を再度帯びることになる)をしていく作業が認識の中で行われていきます。

つまり、類は友を呼ぶ!ということは、例えば、悲観的な類は、泣きっ面に蜂!となり、さらなる悲しい現象を引き寄せるんだな。××さんのように・・・。逆に、楽観的な人は笑う門には福来たる!となって、さらに幸せになっていくのか。○○さんのように・・・。だからこそ、自分は明るく幸せに朗らかに生きたいな!!!(実感が籠もって)という過程を意識的にしろ、無意識的にしろ、辿り返して(イメージの中で追体験して)、つまり、神経系を駆使(さらにこの方向で鍛え、成長させ)しているのです。だから、どういう方向であれ、識る人は急激に人生が変化していくわけです。

たまに凄い人を視ていると表情や特に目つきに一瞬で走馬燈のように流れているであろう認識の流れを垣間見ることがありますが、こうして一回一回の密度が桁外れに違うわけですから、まずは自分の実感できるレベルから、つまりスモールステップを踏むしかありません。

いずれは、一を聞いて十を知る(識る)!レベルも積み上げていけば不可能ではないでしょう。論理的に考えてみれば、抽象→表象(経ない場合もある)→具象(具体的な現象)へと下りていく認識の過程、逆に具象→表象(経ない場合もある)→抽象へと上って行く認識の過程を瞬時に膨大な領域で展開しているから成せる技なんでしょう。

ちょっと脇道にズレましたが、高度であろうと、そうでなからろうと、いずれにせよ、引き寄せでキーになるのは波動ですから、感情レベル、さらには感性レベルで実感していくことが大切だということです。

さて、少し纏めておきましょう。

引き寄せの達人レベルの人たちは、法則(抽象)レベルで強烈に(というか当然に)引き寄せの法則を実感していて、そこから、すべての現象を説いていきます。我々に法則を実感してもらうために、現象や表象を使って説いて(解いて)いくわけですね。

ですから、達人にとっては法則レベル(抽象)も例え(表象)も具体・現象(具象)もすべて引き寄せの法則に貫かれていると感性、感情を伴って実感しています。

そこまで至らない人たちは、レベルや局面は違えど、法則は知識レベル、表象は信仰レベル(信じたい)、具象は錯覚レベル(でも現実は・・・という根深いアレ)です。

長々と書きましたが、要はどうやってこの三段階を感情や感性、感覚そして事実レベルで実感していくかという至極当たり前のことに行き着きます。これは、各人の神経システムが違う(すなわち、ピンとくる、胸落ちする、腑に落ちる)以上、ルートに関しては多様性を帯びざるを得ないことになります。

ですから、今の段階の自分の備忘録として、また、私に似た神経システムの人には、多少の実感が湧きやすいかもしれない、参考となるかもしれないと思い、残しておくものです。
【2013/04/20 23:53】 | 日々つれづれ | トラックバック(0) | コメント(0)
鏡・・・2
今回はなるべくサクッといきましょう。

この鏡という例えも引き寄せのみならず、精神世界とか宗教、さらには格言的に使ったりしますね。例えば、人は鑑(かがみ)!とか、子は親の鑑!など多少ニュアンスは違いますが、共通性があります。

つまり、鑑・鏡となるモノや、人、現象などに自分の内面が映し出されるわけですね。

文字どおりの物質的な鏡で自分の姿を見れば、そこには自分の姿や背後の景色が映っているわけですが、例えば、顔に汚れが付いていた場合、鏡を磨いたりしません。自分の顔が汚れているのが分かるわけですから、誰でも当たり前の如く自分の顔の汚れを落とします。

あるいは鏡の中の自分の顔が曇っていれば、鏡の中の自分に向かって、元気を出せと思ったり、呟いたりしたとしても、それは、鏡を媒介にして自分自身に言っているわけで、鏡の自分に言っているわけではありません。

つまり、鏡はあくまでも、映すモノなわけです。例えば、鏡の中の自分の映像を変えたければ、自分が変われば簡単に変わり、決して鏡の中の自分に変われ!!!と絶叫したり、変わらないのを哀しんだり、怒ったりしません(笑)

そこで、もしもこの世界が自分の内面の鏡だとしたら・・・?という前回の流れにつながってくるわけです。

すべてが自分の内面の反映だとしたら・・・当然、そんな馬鹿な!!!という方が大半でしょうし、引き寄せに首を突っ込んでいる方でしたら、そうなんだけど、そう思う、感じるのが、なかなか難しいんだよね!!!となるでしょう(当然と感じている方は、思い込みか、その境地に達している達人のどちらかでしょう)。

引き寄せの達人と思われる方々はこの世界を鏡と実感されていて、そう思えない、感じられない人たちは、一所懸命、彼らに教えを請うているわけです。どうしたら、その境地になれるのかと。

当然、私も自分が作り出していると簡単に思える(どころか当たり前すぎて意識に上らないもの)から、思いたい(この時点で逆転してしまっている、つまり、でも現実は・・・というこの言葉に囚われてしまっているわけですが)ものまで、様々な状態といったところです。

達人たちは自分の境地を自分なりの様々な表現で説いてくれ、求めている人たちは、それを手がかりに自分なりに胸落ちする、腑に落ちる考え方を探しながら、この世界は鏡だ!という境地に近づこうとしています。もちろん、私もその一人と言えます。

もっとも、多くの方は境地を求めているわけではなく、欲しいモノを何とか引き寄せるためにこの境地が有効だという考えに引き寄せられてきたのでしょう。ですから、極論すれば、欲しいモノが手に入れば境地なんてどうでもいいんだけど!!!という方も結構いるでしょう(笑)

で、ここまで来ると上り坂が凄く急なんですね。要するに、もう「叶っている」とか、既に手に入っている自分に「なっている」んだよ!!!という境地が当然の如く飛び交っているわけです(^_^;)

すべては自分の内面の鏡!だから当然といえば当然ですが、頭ではともかくも、信じるレベルでは、まぁ、何とかといったところですが、感覚はなかなかそうはならないし、引き寄せられない現実(という錯覚)を見て、思考や感情が騒ぐわけです。

これは、もう天動説を信じている時代の人が地動説を信じるくらい困難です。今の時代の我々でも、知識で知っているだけで、感性、感情としてはやはり地球を中心に太陽や星々が回っていると感じざるを得ないほど、事実とは逆のことが真実に感じられるわけですから。

これくらい落差のある感覚を移行する必要があるわけですから、もう「叶っている」という境地に到達できる人はごく僅かであり、至難ですから、そのために、スモールステップとなる、様々な方法論や観点、考え方などが必要とならざるを得ないのでしょう。

この方法論などに関しては、専門書やネットにお任せするとして、もう少し、この落差が視点を変えて観ることで小さくならないだろうかと私は考えてみるわけです。つまり、この世はすべて自分の内面の鏡と思いたくても、感覚は当然として、感情や感性、思考も思い切れないわけですから、では、どんなこと、どんなエリアなら、そうかも!と多少なりとも実感できるだろうか?という辺りから始めてみるわけです。

長くなってしまったので、次回は、私なりにそう実感できそうなものを幾つか挙げてみましょう。おそらく、皆さんも、自分が創っているなぁと思える(思わざるを得ない)ようなことが幾つか浮かぶと思います。

だとすると、一般的に言う現実って、やはり、現実じゃないっていうことですかね(笑)
【2013/04/16 23:53】 | 日々つれづれ | トラックバック(0) | コメント(0)
鏡・・・1
前回は引き寄せを調べると、時折見かける観点の一つに対する、今の自分の感想(感覚&感情)を書きましたが、ついでにもう一つ。

引き寄せのサイトなどで、重要な観点の一つとして、つまり重要な前提条件となる見方が、この世は、自分の心の反映なのか、それとも客観的な物質的存在なのかという視点です。

これに似たものは古来から宗教や哲学でも論じられてきました。

たとえば、2千年も前から論争が繰り広げられいている観念論VS唯物論。つまり、宇宙は神(≒精神)が作ったとする観念論、宇宙は物質が先行し、その特殊形態として生命が生まれたとする唯物論。

あるいはインド哲学などで論議される、二元論一元論などの観点など・・・

若い頃、こういう分野は多少興味を持ちましたが、自分の能力では所詮、思考の中の出来事であり、別段人生に影響があるわけでもなく、要するに単なる知識的満足感程度でした。

特に、精神世界と日常生活は別・・・みたいに分けて生きていれば、なんら矛盾はないわけです(笑)

私自身、括れば観念論者ですが、利便性や合理性ゆえに唯物論的、すなわち科学的思考を今は主としています。おそらく日本人の大半はそうでしょう。神や仏なんて信じないという人ですら、正月に神社に行く人が山のようにいるわけですから(笑)

それはさておき、こうしてみると、この世は、自分の心の反映なのか、それとも客観的な物質的存在なのかという視点の違いは古来より争われている観念論VS唯物論の亜種の一つと見ることもできるでしょう。

で、こうして2千年も昔から行われている話を何故、今更持ち出したのか?ですが、頭の中、例えば知識レベルや学者が論争しているレベルの次元の話なら直接自分に関係ないや!と言えないこともありません(本当は途轍もない問題をはらんでいますが)。

ですが、もしも頭の中だけ(単なる知識)のレベルではなく『生きる!!!』という問題として捉え返すと天と地ほどの違いを生むことになり得ます(単にどちらかの考え方をするだけではたいした違いはありません)。

もしも自分がこの世を創っているのだとすると、自分は創造者ということになります。すなわち何でも自分の好きなように創っている、創れる、創ればよいという考え方が当然出てきます。

対して、そんな馬鹿な!たとえば北朝鮮からのミサイルだの、鳥インフル、地震などの天変地異なんて創ってないよ!誰もが客観的な世界で主観的に生きているに決まっているじゃないか!!!大多数の方がこちらですよね。

で・・・引き寄せの法則というものに本気で関わっていくと、おそらくほとんどの方が、意識的であれ、無意識的であれ、上記したように世界観(観念論VS唯物論)の世界に突入していくことになります。

若い頃、単なる知識程度で挫折し、ほったらかしにしていた世界観の問題に、生きる!!!というレベルで向き合うことになるとは、まさか一年ほど前、偶然、引き寄せの法則に出会うまでは想像だにしませんでした。もちろん、当初はそんな繋がりに気づくわけもなく、今頃になってやっと繋がりがうっすらと見えだした程度です。

時折、引き寄せの体験談を読んだりすると、茫然の態(てい)となることがあります。

若かりし頃の自分は精神が上で、物質は下という考えが強烈にありました。特に昔の宗教的な観点はほとんどがそうでしょう。ですから、如何に物欲や執着を絶ち、悟りを開くかを目的にして行が行われていたわけです。

ですから、単に欲しい物を引き寄せたいという考え方は、昔の自分の考え方から見ればエゴを増長させ悟りや高い境地から遠ざかる、迷い、誘惑、悪魔の誘いのように見えるわけです(笑)

自分は偶然、天候から引き寄せの世界に入りましたが、もしも、お金、物、人、力などから入ることになったら、思考、感情、感覚の中でそれまでの自分の考え方(信念)と引き寄せという新しい考え方が猛烈に激突し、凄まじい混乱を引き起こしたはずです。

ですから昔の自分の考え方からすれば、娑婆世界の権化、物欲の極みのような考え方から、途轍もない境地に達する人たちを散見し、茫然の態となったのです。

もちろん、当初はチンプンカンプンで理解することすら出来ない話が山のようにありました。その理由の一つが自分と世界を観る立ち位置の違いであり、当然、それに付随する感情と感覚の違いです。

さて、前置きが長くなったので、次回は皆さんが毎日見る鏡の話からいきましょう。世界観と鏡になんの関係があるの?とお思いの方もいらっしゃるでしょう。

引き寄せの体験談のサイトを眺めていると、引き寄せたい個別のモノは違っても、多くの方が苦労しているのは、この世界観を感情として感性として受け容れがたいところなんです。

それにしても・・・引き寄せの法則を通じて、ある種の高い境地に達した人を見ていると、剣聖の論理によく似ていますね。人斬り、人殺しという聖とは正反対の方向を極めていって聖に達する・・・まさに陰極まって陽となる!

モーシェの言う、自由になりたかったら制限を加えよ!!!という法則を極めて困難かつ高度なレベルで体得していったからこその境地でしょう。

日常生活と精神世界と二つに分けて、満足できるレベルの人には到底不可能な境地でしょうね。

欲望って、やり方によってはそれほどまでに人を高いレベルへと誘う可能性のあるものなんですが・・・だからこそ、その道からはそこにはおいそれと行けないわけで。超ハイリスク・ハイリタンーン?(笑)

私もたかだか1年ほどですから、引き寄せの法則そのものや効果を語ることはできません。それは、ネットや本などにお任せして、私に似たような思考性を持っている方にはお役に立つかもしれないと思い、備忘録として残しておきます。
【2013/04/14 15:39】 | 日々つれづれ | トラックバック(0) | コメント(0)
自分を愛する・・・
春爛漫~♪と手放しでは喜べない天気の日も多いですが、皆さんはつかの間の春を楽しんでおられますか(*^_^*)

今日は(既に昨日ですが)、興味深い話を耳にしたので一つ二つ・・・と思ったのですが、ちょいと気づいたことを一つ。

引き寄せに興味を持つと、自愛、とか自分を愛する!という言葉をよく目にするのですが、若い頃から自分にはどうもピンとこない言葉でした。

日本人だし、男だし、口に出すなんて気恥ずかしい、こっぱずかしい世代だしと、いろいろと理由をつけて逃げ回っていたわけですが、逃げたところで、引き寄せですから、注意が向いている以上、引き寄せられてくるわけで(笑)

とはいえ、何となくわかるような、わからないようなで体験は重ねつつも、胸落ちする、腑に落ちるところまでは至っておりませんでした。

言葉にすればいとも簡単、自分を愛する!だけですが、自分を愛するって???と感性で納得することが非常に困難だったのです。まぁ、こんな奴は私だけかもしれませんが(^_^;) でも、俺もそうだ!!!と共感するような方もいるかもしれないので参考までに、恥ずかしながら書いておきます。

私が若い頃、インドを放浪したことは、このブログでも少し書いたかもしれません。結構、危ない目にも遭いました。同様に、イラクで命を落とした青年についても書いたことがあります。

私と彼に共通しているのは、人々の善意の忠告や警告を無視して危険な目に自ら遭うわけです。私はたまたま生きていて、彼は死んだという違いだけで。

では何故、こんな無謀なことを平然とするのでしょうか?

答えは簡単、自分を愛していないからです。

自分の愛する人が、あるいは親や子、兄弟でもイラクやインドの危険な地域へ行く!と言ったら・・・今の自分はまずはなんとしても止めにかかります。たとえ嫌われたとしても。どうしても、止めないのなら、場所を変える、日時を変える、どうしようもなければ、最悪一緒に行くなど、何とかして次善の策を考えます。

自分自身に何故、同じように接しないのでしょう。上記したように、それは、他者を愛するようには自分を愛していないからです。

生き死にの話ではオーバーですか?

では、たとえば、愛する人が、ヤケ酒やヤケ食いをしていたらどうでしょう。私なら、どうしたの?話を聞くよ?と相手の言葉に耳を傾けます。

何故、自分のヤケ酒(私は下戸ですが)やヤケ食いには耳を傾けないのでしょう。

愛していないからですよね・・・

愛する人の哀しみや苦しみが、憂いの表情がふっと見えたら・・・私ならそっと肩に手をかけるかもしれない、あるいは肩を抱き寄せるかもしれない。

何故、自分にはそのよう寄り添わずにほっておくのでしょう。

そうです。愛していないからほっておける・・・

愛する人に接するように、接すればいいじゃないか・・・この視点から眺めてみたら、今までの自分は可哀想なくらい愛とか好きからほど遠い扱い、それどころか無関心といった扱いでした。

な~んだ、最愛の人と同じように自分を愛すればいいのか!簡単じゃないか!腑に落ちた(笑)

そう考えれば(そうできれば)、世界に少なくとも自分を愛してくれる人が一人はいるわけだ!!!と・・・強がっちゃうとちょっと寂しいかも(笑)
【2013/04/13 02:10】 | 日々つれづれ | トラックバック(0) | コメント(0)
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フェルデンクライスを柱に、スポーツや武道、ダンス・バレエ、音楽・芸術などの表現を上達させたい人へ、そして、健康的で心豊かに日々を過ごしたい人に役立つことを・・・

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